現象主義とはものっ凄く単純に言うと、自分が知覚するもののみ存在するという考えです。
例えば、誰もいない森の奥で木の実が落ちて音をたてたとする。 その音が誰にも聞かれなかったとすると、その音が生じたと言えるのか。
扉の向こうは見えないが、扉を開けると庭がある。 しかし、扉を開けていない今でも、ちゃんと庭はあるのだろうか。 私が扉を閉めたとたんに、そこはただの空となり、開けたら庭が慌てて私の目の前に戻って来るのではないか?
そうだとしても、それを証明する方法は無いんだよ。 だって、見ない/見るを同時にすることはできないから。
私はたいていはひとりでいる。 ひとりでいるのが好きだから友だちがあまりできないのか、友達が出来ないからひとりでいるのか。 たぶんどっちもだ。
いろんな経験をしても、誰も覚えていなければ、それが起きたとは言えないではないか。
それが怖いんだ。
ひとりでいると、事象を言葉にする機会がない。 経験や体験を言語化しないと、記憶に残りにくい。 だから、どんどん記憶が無くなっていく。記憶が無くなれば、知識もなくなる。 知識が無くなれば、語彙も減少し、言葉は考える道具だから、考える力も弱くなる。 これ以上バカになりたくねーよ。
このブログの目的はいたってシンプル。私の考えていることの言語化。
あ、これって誰のブログでもそうだね。
我ブログに書くゆえに、我あり。更新しなくなったら、死んだということです。
この鳥は私が見たことによって存在している。 写真に撮ったりブログに書いたりしなければ、そのうち私の記憶から忘れ去られ、無かったことになるのです。
まぁ、それでもいいんだけど。 誰も困らねーし。
でもやっぱり、この小鳥を見直せば、この夏ノースキャロライナのピスガー山に登った時にいい声で鳴いていたなぁ。あー、カワイイかったなぁ、ってちょっと幸せな気分になれるんだよ。